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2026/10/30 11:32

シカの命もツアーになるの?
生命を利用するということ
先日、色々な地域で行われる狩猟体験ツアーについて調べていました。
猟師と一緒に山を歩き、野生動物の痕跡を探す。わなを見回り、捕獲の現場を知り、解体を見学し、ジビエを食べる。
こうした体験を旅行商品として提供する取り組みが、各地で行われています。
その一方で、こんな意見も目にしました。
「シカの命もツアーになる?」
添付されていた画像には、クマやシカの命を題材に、捕獲だけに頼らない道を選べないのか、という問いも投げかけられていました。
その疑問に、私は立ち止まりました。
狩猟ツアー=金儲け=生命を軽く扱っている?
狩猟体験をツアーとして提供し、料金を受け取る。
そのことに対して「生命を金儲けに利用している」と感じる人もいるかもしれません。
しかし、お金を受け取ることは、生命を軽く扱うことと同じなのでしょうか。
農家さんは作物を育てて販売します。
食肉に携わる人は、動物の命を食糧に変える仕事をしています。
革職人は、動物の皮を素材として加工し、製品をつくります。
いずれも、生命や自然の恵みに関わる仕事であり、そこには対価が発生します。
お金を受け取るからといって、それだけで生命を軽く扱っているとは言えないはずです。
もちろん、利益を優先するあまり、動物の苦痛を軽視したり、捕獲の必要性を顧みなかったりするのであれば、問題があります。
狩猟ツアーも同じではないでしょうか。
何を見せ、何を伝え、どのように動物を扱うのか。
参加者に何を持ち帰ってもらうのか。
そして、得られた利益が何に使われるのか。
そうした中身を見ずに、料金が発生するという理由だけで、生命を軽く扱っていると判断することはできないと思います。
反対に、無料で行われているからといって、必ずしも生命を大切に扱っているとも限りません。
大切なのは、お金を受け取るかどうかではなく、その仕事や活動の中で、生命とどのように向き合っているかではないでしょうか。
これは、狩猟ツアーに限った話ではありません。
私自身が取り組んでいる鹿革や毛皮の加工も、鹿の命から得られた資源を、経済活動につなげる仕事です。
商品として販売することと、その命を軽く扱うことは、同じではないと考えています。
だからこそ、問い直したいのです。
生命を商品にすることが問題なのでしょうか。それとも、生命をどのように商品にするかが問題なのでしょうか。
命を観光商品にすることは、いけないことなのか。
狩猟体験ツアーには、野生動物の命を扱うという難しさがあります。
捕獲の場面を刺激的な見世物にしていないか。
野生動物の命や苦痛を軽く扱っていないか。
参加者に、狩猟や野生動物について正しく伝えているか。
考えなければならないことは、いくつもあります。
一方で、猟師が山を案内し、野生動物の痕跡や生態を伝える。農作物への被害や、捕獲が必要とされる背景を説明する。捕獲した動物をどのように利用するのかを伝える。
そうした体験を通じて、参加者が野生動物と人間の関係について考えるようになるのであれば、そこには一つの意味があると思います。
問題は、ツアーという形を取ることそのものではなく、何を伝え、何を体験してもらい、何を残すのかということではないでしょうか。
山で起きていること
私は猟師として、野生動物と人間の暮らしが交わる現場にいます。
そこで見えてくるのは、単純に「動物がかわいそうだから捕獲をやめればよい」と言い切れるものではない、という現実です。
シカによる農作物への被害。
森林の植生への影響。
人間の生活圏への出没。
地域によって異なる野生動物の生息状況。
もちろん、野生動物による被害があるからといって、何でも捕獲すればよいわけではありません。
防護柵の設置や農地の管理、生息環境の整備など、捕獲以外の方法もあります。捕獲が本当に必要なのかどうかは、地域の状況や被害の実態に応じて考える必要があります。
それでも、捕獲をやめるだけで、すべての問題が解決するわけではありません。
ここで、もう一つ考えてみたいことがあります。
「農作物を食べられてもいいではないか。動物たちのためなら、それくらい受け入れるべきではないか」
そう考える人もいるかもしれません。
しかし、農作物を食べられる農家さんの立場からも考える必要があります。
毎年、丹精込めて育てた農作物を食べられる。
対策を講じても被害が続く。
その被害が経営を圧迫し、農業を続けることが難しくなる。
そうして農家さんが田畑を手放すことになれば、耕作放棄地が増え、これまで人の手によって維持されてきた里山の環境も変わっていく可能性があります。
里山が失われたら、動物たちはどうなるのか。
里山は、単なる農地や人間の生活空間ではありません。
田んぼや水路、ため池、草地、雑木林。
そうした異なる環境が隣り合い、人の営みと自然が関わり合うことで、多様な生き物が暮らせる場所がつくられてきました。
里山には、原生林とは異なる環境を必要とする生き物たちもいます。
原生林を守ることは、もちろん大切です。
一方で、人が農業を営み、草を刈り、田畑を管理し、森林との境界を保つことで維持されてきた環境にも、固有の価値があります。
もし、農業を続ける人がいなくなり、里山が失われていったらどうなるのでしょうか。
そこに暮らしていた生き物たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。
もちろん、耕作放棄地が新たな生息環境となり、生物にとってプラスに働く場合もあります。農地が減れば、必ず生物多様性が失われるという単純な話ではありません。
しかし、人の営みと自然の関わりによって維持されてきた環境が変化すれば、そこに暮らす生き物たちにも影響が及ぶ可能性があります。
目の前の一頭を守ることと、その地域に暮らす多くの生き物が生きていける環境を守ること。
この二つが、いつも同じ結果につながるとは限りません。
だからこそ、野生動物の捕獲について考えるときには、一頭の命だけでなく、その周囲にある人間の暮らしや生態系にも目を向ける必要があるのだと思います。
その瞬間だけを見て、答えを出せるのか。
確かに、命が失われる瞬間を目の当たりにすれば、酷いと感じるかもしれません。
実際に手を下す猟師である私自身も、そう思うことがあります。
目の前で、一つの命が終わる。
その光景は、決して軽いものではありません。
だからこそ、野生動物を殺すことに抵抗を感じる人の気持ちも理解できるつもりです。
しかし、ここで一つ考えてみたいことがあります。
その瞬間だけに注目し、捕獲をやめるべきだと訴えることは本当に多くの動物を守ることにつながるのでしょうか。
野生動物を捕獲しなければ、その命は失われずに済むかもしれません。
一方で、地域によってはシカの増加が植生に影響を及ぼし、ほかの生き物の生息環境を変えてしまうこともあります。
反対に、捕獲圧を減らすことが、野生動物の個体群を守るために必要な場合もあります。
つまり、捕獲することがよいのかやめることがよいのかは、どこでも同じ答えになるわけではありません。
大切なのは目の前の光景だけで結論を出すのではなく、その地域で何が起きているのかを知り、どのような方法が適切なのかを考えることだと思います。
目の前の一頭の命を守ること。
多くの生き物が暮らせる環境を守ること。
人間と野生動物が共に暮らせる条件を考えること。
それぞれを切り離して考えるのではなく、つながりの中で考える必要があるのではないでしょうか。
捕獲した命をどう扱うのか。
捕獲の是非を考えることと捕獲した命をどう扱うかを考えること。
この二つは関係していますが、同じ問題ではありません。
捕獲したシカをどのように利用するのか。
肉を食糧にする。
皮を革や毛皮として利用する。
角や骨などを、別の用途につなげる。
捕獲した命を利用することについてもさまざまな考え方があると思います。
私は、捕獲した命を可能な限り活かしたいと考えています。
だからといって、利用すれば何でも許されるということではありません。
そもそも捕獲する必要があったのか。
どのように捕獲したのか。
苦痛をできる限り減らすことができたのか。
捕獲した命を、どのように利用したのか。
考えるべきことはいくつもあります。
そのうえで、捕獲した命をただ廃棄するのではなく、別の命の糧や暮らしの資源として活かすことには、一つの意味があるのではないでしょうか。
人間が食べるのは残酷で動物に与えるのはよいのか。
私は、もう一つ考えてみたいことがあります。
捕獲したシカの肉を人間が食べる。
あるいは、犬や猫、その他の動物の糧として利用する。
どちらも、シカの命を奪うことによって得られたものです。
では、人間が食べることは残酷で動物に与えることはよいのでしょうか。
食べる主体が人間なのか、それとも犬や猫、その他の動物なのか。
その違いによって命を奪うことの意味まで変わるのでしょうか。
もちろん、人間の食用と動物の飼料では利用の目的や衛生管理などに違いがあります。
また、野生動物の肉を食べることに対する考え方も、人によって異なります。
しかし、人間が食べる場合も、犬や猫、その他の動物の糧とする場合も、結果としてシカの命から得られたものが別の命を支えています。
人間の食糧になる。
犬や猫、その他の動物の食糧になる。
皮や骨などが別の用途につながる。
利用の形は違っても
私たちの暮らしはほかの命によって支えられています。
私はどちらが正しくどちらが間違っていると簡単に決めるのではなく、その違いを考えてみたいと思います。
命を奪うことへの抵抗を感じるのであれば、その命を何に利用する場合でも考えるべきことがあるはずです。
そして、捕獲した命をどう活かすのかを考えることも命を扱う者の責任の一つではないでしょうか。
命を、余すことなく活かす。
私が鹿の資源利用に取り組んでいるのは、捕獲した命を可能な限り活かしたいと考えているからです。
肉だけではありません。
皮を革にする。
毛皮として利用する。
角や骨なども用途を探りながら活用する。
すべてを無駄なく利用することは簡単ではありません。手間も時間もかかりますし、利用できるものにも限りがあります。
それでも、命を奪った以上、その命から得られたものをどう扱うのかを考え続けたいと思っています。
ただし、命を余すことなく利用することと、捕獲そのものが必要だったかどうかは別に考えなければなりません。
利用できるから捕獲してよい、ということではない。
一方で、捕獲した命をどのように活かすかという問題も軽視してよいものではない。
この両方を考える必要があるのだと思います。
人間にできること、果たすべき役割
こうした問題を広い視点で考えることは簡単ではありません。
目の前で命が失われる光景には、強い印象があります。
一方で、農業が衰退していくことや、里山の環境が変化していくこと、その先で生態系に何が起こるのかはすぐに目に見えるものではありません。
目の前の一頭を守ることと、その一頭を取り巻く世界全体を守ること。
その両方を考えるには、時間をかけて周囲を見渡す必要があります。
大きな視点を持つことは難しいことかもしれません。
しかし、私は目の前の出来事だけでなく、その先に何が起こるのかまで考えることは人間だからこそできることだと思っています。
そして、それこそが人間に与えられた役割なのではないか?とも思います。
私たちは野生動物を捕獲することができます。
その命を食糧として利用することもできます。
一方で、捕獲以外の方法を考え、農地を守り、里山の環境を維持するために行動することもできます。
だからこそ、目の前の命を奪うことだけを見て判断するのではなく、その行為が必要なのか、ほかに方法はないのか?そして、その先にどのような結果が生まれるのかまで考えなければならないのだと思います。
もちろん、人間が常に正しい判断をできるわけではありません。
生態系は複雑でよかれと思って行ったことが、思いもよらない結果を招くこともあります。
それでも、考えることをやめてはいけない。
一頭の命を見つめることと、その命を取り巻く世界全体を見つめること。
その両方から目をそらさず、何が本当に命を守ることにつながるのかを考え続ける。
私は、それが人間にできることであり、果たすべき役割の一つなのではないかと思っています。
シカの命もツアーになるの?
この問いに、私は単純に賛成とも反対とも答えられません。
ただ、命を利用する現場にいる者として、考え続けたいと思います。
ツアーになるかどうかよりもその体験を通じて何を知り、何を考え、何が残るのか。
お金を受け取ること自体が問題なのか。
それとも、利益を得る過程で生命をどう扱うかが問題なのか。
目の前の一頭の命を守ることと、その命を取り巻く多くの生き物や環境を守ることを、どのように両立させるのか。
そして、私たちは野生動物とどのように付き合っていくのか。
一頭の命だけを見るのではなく、その命を取り巻く環境や、そこに暮らすほかの生き物、人間の暮らしにも目を向ける。
感情だけでも、数字だけでもなく、現場で起きていることを知り、できる限り広い視点から考える。
簡単に答えを出せる問題ではありません。
だからこそ、これからも現場から考えていきたいと思います。
Bushcraft komorebiでは、鹿の命を可能な限り活用するため、鹿革・毛皮・角などの加工や利用に取り組んでいます。商品や取り組みについてのお問い合わせは、ショップのお問い合わせ窓口からお気軽にご連絡ください。
